終戦の日、日本側から見た特集が多い中、アメリカ側からのものはマイナーですが、
ポリティカルな背景は全くありません。念の為。
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《日本に裁かれたアメリカ人戦犯》
Fiske Hanley!(フィスク・ヘンリー: 日本の軍事警察、
憲兵隊の蛮行からの数少ない生存者)
=================第4章==================
爆撃
前回の空爆でわれわれは日本陸軍の高射砲で守られた地上目標を爆撃した。その
対空砲火は日本海軍のものより劣っていた。海軍のは海上の艦船を残す為、より
高性能でなければならない。多くの船が瀬戸内海および下関海峡を往復していた。
接近してサーチライトで目標地域と高射砲を照らすと、多くの艦船が前方を飛ぶ
爆撃機に向けて一斉に高射砲の照準を合わせており、どうして日本がこのように
迅速に防衛力を集中できたのか、その諜報力を量りかねてたが、悪名高い憲兵隊
に捕えられて、その能力を知らされた。
明らかに日本は、この致命線の下関海峡を守るために北九州全域および本州南部の
海軍施設を移動・避難させていた。主要水路に防空体制を敷く余裕がなかったのだ。
われわれの機が爆弾投下地点2マイル以内に近づくとサーチライトはほとんど消え、
対空砲火も止み、眼下の海峡は平和な海に見えた。ただ1つ2つ、ブルーっぽい
サーチライトが前方の夜空を切り裂いていた。
このブルーのサーチライトが、敵機に照準を合わせるレーダーのものであることは
東京を空爆したときの経験でわかっていた。一機のB29が照射された途端、ほかの
サーチライトもそれに集中して、一斉に対空砲火の雨を降らす、一旦狙われると、
空爆中のB29がそれから逃れることは難しく、爆弾投下後なら軽くなった機体を
パイロットが激しく操縦し逃れ得ることもあったが、幸運なB29は多くなく、
前方の機も『農場(大地)の餌食』となる破目に。
目標に近づいた機内ではフィンテルの眼がレーダーに釘づけになっていた。
彼はラブに、弾薬庫を開き投下準備および眼下海面の視界確保を命じていた。
『10カウントダウンで”投下”』フィンテルは落ち着き計った声でラブに
命じた。フィンテルが数える10秒間は何時間にも思えた。1000ポンド
爆弾を”投下”する瞬間、少々機体が揺れた。
ミッション達成!目標地点に正確に投下はしたが、トラブル発生!
10秒のカウントダウン中も青いサーチライトはわが機をかすめていた。
かすかに照射されるとまた闇の中へ。サーチライトはわが機を追って
あちらこちらと暗闇の空を彷徨った。レーダーが故障だったのか周辺
ばかり照らしていたが、1本がわが機を捉え追尾し始めると間断なく
何本ものサーチライトが集中し円錐状になった。まさに円錐形をなす
致命的な光の頂点に機体がおかれた。
ブラウンはサーチライトから逃れるため、スロットル全開で機を荒々しく操縦、
上方の雲に逃げ込もうとした。計器パネルが敵のサーチライトで照らされて
私にも読めたが、ラブだけでなくブラウンもアンドリューも、未だかつてない
強い照射に眩惑されており、まさに致命的な情況だった。このサーチライト
に捕えられた他の機はほとんど空から消えており、今度はわが機の番だった。
わが機は、下の多くの艦船からの一斉砲撃を逃れることは出来なかった!
高射砲の照準ぴったり! 大小の口径の砲弾が炸裂してわがB29は揺れ、
何発かの直撃弾が耳をつんざいた。あられの嵐のように砲弾が音を立てて
機体に命中した。かつてこんな危機を経験したことはなかった。巨大な
わが機もあちらこちらと嵐の海に浮かぶのコルクのように漂った。
わが機が狙われた分、視界にあった別機( 504号機)は助かった。
敵艦の高射砲ほか全ての砲火の標的にされたわが機は集中攻撃され、
低空飛行すれば艦船に撃ち落とされるのは確実だった。
私は祈り始めた。1642年の戦いを前にしたジェイコブ・アストリー卿の
祈りの言葉を呟いた。
”ああ主よ、あなたにはこの日の私の慌ただしさもおわかりです。
たとえ私があなたを忘れようとも、私を忘れないでください!"
これからの運命がどうであれ、祈りの言葉に力づけられた私は落ち着いた。
わが命は神の手にあった。
通信は途絶、不吉な静寂だった。乗組員全員が興奮の中それぞれの思いに
耽っているようで、数秒が何時間にも感じられた。ブラウンは機体の復旧
と乗員救助にかかりきりだった。日本側主要艦船の真上にいたが、それ迄
致命的な砲撃を受けてはいなかった。サーチライトの光線は眩しく決して
わが機から離れることはなかった。色付のマシンガン追跡光線を照射され、
機内は昼間より明るく、まさに地獄絵そのものになった。
乗員の兵士が機体全面への砲撃を報告。敵は持てる火器のすべてを使って
わが機をはずすことなく、あらゆる口径の砲弾が命中した。たてつづけに
重火器の爆発が光り聞こえ、まさに爆心にされたわが機は大きく揺れ乗員は
荒海のコルクのように飛ばされ、耳は爆音で聾してしまった。
スロットルをいっぱいに引き、エンジンが最高回転まで引っ張られると、
徐々に速度、高度ともに上がったが、狂ったように針がくるくる回って、
何の役にも立たない計器盤など見る気にもならなかった。
投下要員が被弾被害を報告。後部キャビンでは、負傷兵が消火器で
鎮火作業にあたっていた。後方には乗員4名がいたが、わが機の
犠牲者は何人だったのか? 砲弾が命中しだれもが危機に瀕した。
前方キャビンの乗員はどうか?影が見えたフィンテルは大丈夫の
ようだが、あちこちで上がった火の手の報告が相次いだ。突然、
切れた通信回線。明らかに砲撃によるもので、通信システムが
やられてからはだれもが目前で起ったことだけがたよりとなり、
最悪のトラブルに陥った。
われわれの生存は、サーチライトと砲撃から逃れ、不時着するか
脱出するか、いずれにせよ、太平洋に出るまでの司令官の腕に
かかっていた。その太平洋では空陸救難隊の潜水艦が待っていた。
多くの疑問が頭をよぎった。ブラウンはどうしているのだろうか?
本機の位置は?姿形は? 通信がないのでだれにもわからない。
私はできるだけ小さく身をかがめ、計器盤を読んで状況把握しよう
としたが、技術部局がコントロール不能に陥ると、どの計器も、まるで
ラスベガスで大当りした時のようで、何の意味も読み取れなかった。
どこか重要な配線が砲撃を受け電気回路がショート、めちゃくちゃな
信号が現れた。エンジン、電気系統、油圧系統に何が起っているのか、
さっぱりわからなかった。電気系統の主要部分はすべて爆弾格納庫に
配線されており、おそらくそこに火がついたのだろう。その配線が
やられれば機全体の電気が消える。B29は電気系統で動く爆撃機だ。
機のメカニカルな(機械の)状況は、神のみぞ知る、だった。
最悪の状況にあることはわかっていた。
とにかく、現状を打破するため、何かを、いや何でもしたい、と思っても、
何をしたらよいのかわからず、ただブラウンの指示を待つしかなかった。
無力と絶望を感じた。
持ち場から時折覗く小窓が尾翼向きだったため、前方の恐ろしい状況
を目にせずに済んだ。パイロットや爆撃兵の前方視界では物凄い光景
が展開していたことだろう。小窓から見ても最悪で、右翼とその2機
のエンジンが火を吹いていた。4機のエンジン全部に火がついた、と
いうのが最後の機内連絡だった。両翼、胴体、尾翼が燃える、とは
飛行機全体が燃えているわけで、まさに本機炎上である。
私は4機のエンジン目掛けて消火器を噴射したが、何ら目に見える
効果はなかった。私は、身の毛のよだつような窓外の様子には目を
向けず、ひたすら祈った。
私の持ち場近くの機外で対空砲火が炸裂し、シュラネルが
機体に強く打ちつけられた。私の座席の下を爆風が通抜け
キャビンの仕切り材がズタズタになった。 何の痛みもなく
負傷していないと感じた。私の祈りと1890年の1ドル銀貨
の幸運が効いたようだ。
激しい操縦と対空砲火の雨で高度が全くわからなくなった。
言えるのはただ、速度約250マイルでエンジンが空中の機体を
引っ張っており最低限のシステムは稼働しているということ。
機体の損傷がひどくテニアンには戻れないことは分っており、
日本の沿岸をできるだけ長く飛んで不時着または脱出を果し、
海軍の救難潜水艇に救助されるのがただ一つの望みだった。
機体の激しいバウンドが、操縦士ブラウンの回避措置なのか、
対空砲火によるものなのか、わからなかったが、戦後になって
アンドリューに尋ねた処、砲火の炸裂によるものだった由。
機体は重火器でオモチャのように投げ飛ばされ、ブラウンは
上昇して上の雲に隠れようとしたが、うまくいきそうな気配
はなかった。
もう一発、座席の右下で炸裂、体が上に持ち上がった。至近距離だったため
火薬の刺激臭がキャビンに充満した。両脚を動かすと負傷していた。今度は
とうとう命中したが、脚はなんとか動かせた。
突然サーチライトからはずれ、砲撃が止んだ。闇につつまれたキャビン
内は呼吸できないほど温度が上がった。通路の向こう側のフィンテルは
恐怖の表情で何かを叫んだが、私にはわからなかった。彼が私の持ち場
側に装備されていた消火器を指差したので、彼か、無線係のローズが
爆薬庫の火災を見たことがわかった。私が手を伸ばして手渡した消火器
をつかんだフィンテルが銃座の後ろへ消えると同時に、きわめて高温の
熱風が銃座後方から吹込んできた。フィンテルが爆薬庫のハッチを開け
消火にあたったことは明らかで、その間、火災の炎と熱風がキャビンに
吸い込まれてた。密閉型キャビンだったが、窓を開けたり、砲撃の穴が
あったりすると熱風はどんどん流れた。いずれが原因であれ、熱風と
炎は当機の推進渦流でキャビンに吸い込まれた。ローズとフィンテルが
ハッチを開けた途端、彼らの運命の幕は閉じた。爆薬庫からキャビンへ
吹き込む炎で彼らは焼死。2人の勇敢な戦士は乗組員を助けようとして
召されたのである。彼らに神のご加護を!
灼熱のキャビンに独り取り残された私は、半狂乱で両腕を上げ、苦しい
肺に空気を送る、ただ、生き残りたい一心だった。キャビンの加熱した
空気の温度を下げ呼吸するのになすべきことは何か? 本能的に私は
持ち場の下に手を伸ばし、車輪のハッチカバーをねじ開けると、外の
冷気がキャビンに入って、火炎は爆薬庫の方へ押しやられ、ふたたび
呼吸できた。ハッチカバーはそのままでは開いていないため、右腕で
押さえて開け、生存のための、つぎの一手を模索した。
キャビンからは2つ、脱出ルートがあった。一つは、いま炎上中の
爆薬庫経由、もう一つは、近くにあった機首のハッチ経由だったが
ハッチは車輪が格納され邪魔をしていた。機首のハッチを開けると
車輪が2つ見えた。着陸装置は電動で、爆薬庫に張り巡らされていた
電気配線もこれまでの火災で焼けているはずで車輪を動かす電力はない
と思った。機内連絡が途絶えた場合は司令官が脱出命令のベルを鳴らす
ことになっていたが、もしベルが鳴っても外の爆音と機内の騒乱で
聞こえなかったろう。たとえ、ブラウンが脱出命令を出したところで、
前方キャビンでは全員が追い込まれた。脱出ルートが2つともブロック
されていて、望みはほぼなかった。
ブラウンの方を振り返っても、暗闇と煙に遮られて何も見えなかった。
脱出を妨げている車輪をハッチ越しに未練たっぷりにながめる一方で、
炎上中と思われる後部爆薬庫にも目をやった。そこで14x20インチの
側窓から脱出できるのでは、と思いつく。しかし、背中に結びつけられた
パラシュートと救命ボートのパックが邪魔して、そこから抜け出ることは
できなかった。たとえ抜け出れたとしても、それは自殺行為に等しかった。
右翼内側のエンジンのプロペラが窓後方数インチのところで回転していて、
私の体などたちまち粉々にされるからで、そんな可能性は問題外だったが、
捕虜になったB29技術兵2人が私が敬遠した方法で脱出したと聞いていた。
彼らは技術兵の小窓から脱出、一人はプロペラで 片足を切断する破目に、
もう一人は、プロペラに触れることなく無事脱出、信じがたいことだが、
奇跡は起っていた。
わが機は、きりもみ状態で急速に地上に落下していった。 私は
催眠術にかかったかのように機首を見つめていた。機首の車輪
こそ唯一脱出できる道で、それが伸びなければ機内の虜だった。
車輪を下げる手動のクランクはあったが、そのクランクが見つかっても
その作業には最低5分はかかった。残された時間は5分どころか、
あと数秒。私は座席を見渡し、ブラウン、またはアンドリューに合図して、
ハッチを開けたまま前輪を伸ばす許可を求めた。煙につつまれた
キャビンは混乱状態で、合図もできず、私はひたすら祈った。
奇跡が起こった!祈りが届いて車輪が伸び機首から前輪が降り始めた。
私はわが眼を疑った。脱出ルートの障害物がなくなった。まだ電力が
残っていたのは驚きだった。つぎに、煙の向こう前方からだれか
わからない人影があらわれ、開いた機首のハッチから飛び降りた。
前方のだれかも私以上に事態、全貌を把握していた。それはだれか?
ブラウンか、ラブか、アンドリューか、
とにかく、つぎは自分の番だった。
そのだれかが飛び降りたとき、ハッチカバーがぱたんと閉じ、また
キャビンは炎、煙、熱に見舞われた。私は下方に手をのばして
ハッチカバーをねじ回し、無理せず落ち着いて、座席によじ登り、
開いたハッチから夜空に飛んだ。かぶっていたヘルメットは
本機の推進風圧で飛ばされた。
私は炎上するB29の胴体の真下に放り出された。炎の中をほんの一瞬通っただけ
だったが髪の毛が焦げ、頭の地肌と手に火傷を負った。闇の空を漂いながら、
ふと『尾翼側のハッチに位置し、機体に当たらぬように脱出せよ。』という
B29脱出マニュアルに違反していなかったろうか、と思った。私は可及的
速やかに脱出、もう一人の乗員は避難ハッチの前方から脱出した。ともに
違反していたが、両者とも脱出に成功!ここでも私はついていた! 主は、
私を見ていてくださった!
頭の中でいろんな考えが目まぐるしく巡り、脱出したのが地上から
何メートルだったのかもわからなかったが、わが機が砲火を浴びたのが
5000フィートだったので、さほど高くはなかった。対空砲火が連続して
時間が止ったような感覚に陥って、高度どころではなかった。
地上はもうすぐ、だった。
炎上する機体に触れることなく脱出できた私は、左胸部の
パラシュート開き綱のハンドルに手を伸ばした…が…
あるはずのハンドルがない!
どこだ? 自分はパラシュートを着けているのか?
もちろん着けた。乗員は常に緊急装備の有無、装着、
可動を確認している。パラシュートを着けてはいるのだか、
開き綱のハンドルはどこにあるんだ。
私はあせりに焦ったが、一瞬、通常型とは若干異なる型の
パラシュートで脱出した空軍兵士の話を思い出した。その
型は開き綱のハンドルが反対側の胸部にあった。死体検案
の結果、彼は衣服を何度も胸骨までかきむしっていたが、
開き綱のハンドルはその反対側にあった、という話だ。
これだ!と思った。私は開き綱の上から防火ジャケットを
着用していたので、もしマニュアル通りなら、小さいタブを
引っ張ってジャケットを緩めれば、開き綱のハンドルが落ち
出てくるはずだ。迂闊にもこのことを忘れていた。ジャケット
の中に手を入れ開き綱のハンドルをグイと引いた。ジャケット
裏地の繊維パネルが幸した。そのパネルが飛んでパラシュート
が開くしくみになっていた。パラシュートは天蓋いっぱいに
膨らみ、落下するまでまったく静寂そのものだった。あたりを
見渡すと、炎上し渦を巻いて地上に落ちていくわが機が遠くに
見えた。まさに空にある、火の十字架だった。その炎上機体が
墜落し火の海になるのを目撃したのは落下の最中で、私は炎に
消えた勇敢な同僚たちに祈りをささげた。同乗の兵士は私ほど
運に恵まれず、8名が戦死した。彼らに神のご加護を!彼らは
国のために究極の犠牲を払った。その魂が天国で安息を見つけ
られるよう祈るとともに自分が生き残ったことを神に感謝した。
私の前に飛び降りた兵士の無事も祈った。私以外の生存者が
副操縦士のアル・アンドリューだとわかったのは翌日のこと、
彼は乗員で唯一の妻帯者だった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
悲劇の飛行の最後の瞬間についてアルが語ったのは、何カ月も後のこと。
ラブは対空砲火で即死、ブラウンは別の爆発で瀕死の重傷を負った。アルは、
いかにして室内の炎、煙、熱から逃れたか、そして機首の車輪に起った奇跡
の様子を語った。私が機首のハッチを開けて意識を回復した彼の目には
ラブとブラウンの死、そして炎上して地上へ渦巻く機体が映った。彼は、
一縷の望みもないことがわかった。本能的にランディングギア(着陸装置)の
スイッチを入れるとハッチから車輪が出て、彼は脱出。このすべてが
数秒間の出来事だったのである。
もし私がハッチを開けていなければ、アンドリューの意識は戻らなかったし、
車輪が伸びることもなかった。私たちはお互いの命の恩人だった。
私たちの”生への執着”が、しかるべき時にしかるべき行動をとらせたのだ。
静寂の夜空を舞い降りる途中、世界は平和に思えた。耳をつんざく、対空砲火の
恐ろしい炸裂音、噴き出す火炎、砲撃された機内の動揺から、完全に解放された。
まったく不気味な静寂に包まれた私は、落下中なぜか米軍放送で聞いた最新曲の
メロディー♪善を強調、悪を除外~♪が、ガンガン狂ったように、何度も繰返し
頭の中を巡った。
わが機は約4マイル内陸部に入って墜落。私は、日本の小倉近く、八幡の南西部、
植木という小さな村に降りた。月の光に照らされパラシュートの28フィート天蓋
はゆっくり地上に着地。脱出高度は上空約1000フィートと推測。 驚いたことに
着地点は水上でなかった。背負っていた小舟が爆風で割れているかも知れないので
水上より陸上の方がいいと思っていた。Mae West製のライフベストも穴が開いて
いるかも知れず水上だったら長くは持たなかっただろう。
真下は一方に道に面し他方は電話線が走る稲田で、ほぼ無風だった。
私はパラシュートが電話線にかからないよう横糸を操った。横糸を
引けばパラシュートの向きを変えられた。行きたい方向に引張れば
その方向へ向くわけで、稲田の真中を着地目標にした。
地面が近づくと、とても奇妙な特有の悪臭に気付いた。それは何世紀
も不潔に放置されていたような不快な腐敗臭で、これこそが日本の
匂いだった。後日それは人間の排泄物を肥料に使用している日本では
ふつうの匂いであることがわかった。
下からは興奮した叫び声がはっきり聞こえ、着陸目標の稲田へと移動する人
の波が見えた。怒り心頭の現地人が私の着地点を捜していることは明白で、
着地点を取り囲むように輪になった40~50人が激昂、興奮のあまり
何やら叫んでいた。武装した農具を空に向かって荒っぽく振り回す姿から
とても望ましい歓迎集団とは思えず、拳銃を捜したが、見当たらなかった。
多くの人々が叫びながら方向を指示した。歌を歌っているような、わけの
わからない言語が聞こえた。
突如として、私は降伏の仕方を知らないことに気づいた。
われわれは多くの事を習ったが、降伏の方法だけは教わらなかった、
そのことが重大な欠陥とわかった、しかも致命的な。
そんな軍隊教育的発想が頭に浮かんだ。
テニアンに戻ったら、教科に”降伏”の一項を追加するよう
忘れずにだれかに言わなければならない。
問題が数多く、頭の中を駆け巡った。どのように捕えられるか?
ほんとに捕まりたいのか? 今何をなすべきか? 拳銃で
身を守ろうとしたところで、”あひるの屍”となるのは目に
見えており、見つけた拳銃は防水の箱にしまうことにした。
これが戦闘部隊なら、撃たれたとしても、投降すべきか否か
について議論の多いところだが、日本兵の武士道精神で、
B29の乗組員を生かしておくのかどうか、全く不明だった。
日本人は捕虜は恥と考えると聞いていた。消息不明の同僚からの
情報も皆無。こうした窮境に陥った場合は『聞いて演じる』もの
とされていたが、いよいよ私が『聞いて演じる』番になった。
遂に日本の土を踏んだ。やわらかい稲田に着陸した。湿った土、
実った稲穂で衝撃が和らいだ。仰向けに倒れてすぐ立った私は
パラシュートを頭からかぶって全身で天蓋、綱糸と格闘した。
着地の混乱状態を脱して装着していた装備をはずすと身軽に
なった。無帽だったが前面に耐火防具をつけたまま、ぐるっと
周囲を見渡すと、怒りいっぱいの悪意満面に、威圧的な音をたて
武器をかざした日本人の群衆に完全包囲されていた。
私は肩を丸め、拳を握りしめ、しっかり息を呑み、大地に立って、
つぎの成り行きを見守った…
(完)